未生流

未生流のあゆみ

未生流は江戸後期、流祖・未生斎一甫によって創流されました。
それから二〇〇年以上の時を経て、現在は十世未生斎慶甫が家元を継承しています。ここでは未生流創流からのあゆみをまとめてみました。

未生流は江戸後期、流祖・未生斎一甫によって創流されました。
それから二〇〇年以上の時を経て、現在は十世未生斎慶甫が家元を継承しています。ここでは未生流創流からのあゆみをまとめてみました。

創 流 創流|流祖 未生斎一甫 通称 山村山碩 文政七年(一八二四年)歿

未生流は、未生齋一甫(通称:山村山碩(さんせき)によって創流されました。一甫は関東の幕臣の家に生まれたといわれ、若年から風流を愛して華道を志、諸流の奥旨を渉猟しました。三十歳のころに江戸を離れて諸国を行脚した末、九州の地に赴き、長年研究した華道理論を七巻の伝書にまとめて、未生流を称(とな)えたのが寛政年間(十八世紀末)のことです。
その後、出雲から但馬へと旅を続け、但馬国土居村の豪農上田家に滞在しました。上田氏は一甫に心酔し、号を道甫と称えて一甫の熱心な弟子となりました.その上田氏の勧めによって一甫は浪華(大阪)の地に出、斎藤町に居を構えて未生流家元の門標を掲げました。文化四年(一八〇七)ごろのことです。その当時は徳川家斉の治世下で幕藩体制も整い、文化も江戸を中心とした奢侈贅沢の爛熟期で、生け花の諸流も当然江戸に多かったのですが、敢えて江戸ではなく、大坂の地で一甫は未生流を創流しました。これは体制に反骨する一甫の気概をうかがわせるものと言えます。こうして一甫の名声は諸国に聞こえ、その人格を募って未生流の門を叩く者が日に日に加わりました。

一甫の華道倫理は古代中国の陰陽五行説を根底とし、挿花を通じ自己の悟りを開くという精神的に極めて高い境地を目指したものです。

直角二等辺三角形に役枝を配する明快な花形に込められた理論と哲学は、「華道」と呼ぶにふさわしい道であると言えます。

未生斎一甫が唱えた未生流の「華道論」は、その普遍性から江戸期の人々は勿論のこと、現代の我々まで広く人々を魅了することとなります。

一甫はその後失明しましたが、口述によって記した『本朝挿花百練』の序文にもあるように、いけばな指導に大きな支障はなかったようです。還暦を迎えるころには、すでに家元を二世廣甫に譲り、未生庵と号して再び放浪の旅に出立し、文政七年(一八七四)、大和の地で世を去りました。


伝 承 伝承|二世 未生齋廣甫 幼名 上田安太郎 嵯峨御所花務職 周防法眼 文久元年(一八六一年)歿

二世未生齋上田廣甫は、一甫が但馬国土居村の上田家へ滞在中に見出した者で、道甫の遠縁にあたり、名を安太郎と言います。一甫に天分を認められた廣甫は、内弟子として一甫に従って大阪に出ます。生来の花の才に加えて、廣甫を後継者として期する一甫の好指導を受け、挿花の修行を積みます。一甫の補佐を務めながら理論と技術を体得し、二十代で早くも一家を成したといわれています。不濁斎と号し、文化十五年(一八一八)、二八歳のころには、四季祝日の花図を上梓し、また、伊勢の地へも赴いています。

廣甫は二世家元を継いで未生齋と称しますが、文政十二年(一八二九)ごろ、嵯峨御所へ仕官して花務職となり、法眼の称号を許されて、上田周防法眼とも称しました。流祖一甫のいけばなを進展させ、未生流を全国各地に広めて確固としたものにしました。また、『四方の薫』、『三才噺』などの花図書や理論書の出版に力を入れ、天保七年(一八三六)には伝書二巻を書写本から木版画に改めて整備しています。文久元年(一八六一)七月、大阪の地で亡くなりました。


三世 未生齋一甫 幼名 上田安之丞(廣甫の長男) 号 梅敬 上田越後 嵯峨御所花務職 明治十年(一八七七年)歿

四世 未生齋義甫 通称 黒川義見 大阪東天満超泉寺住職 明治二七年(一八九四年)歿

三世未生齋一甫は、二世廣甫の長男安之丞が継ぎます。廣甫と同様に嵯峨御所に務め、法眼の号を許されて上田越後と称しました。在世中に明治維新が起こり、明治十年(一八七七)、華道の沈滞期に逝去しました。
三世逝去後は未生流家元の後継者がなく、流の衰退を防ぐために二世の高弟が助け合って、懸命に流勢を維持しました。

二世在世の当時から役頭1名、役者4名が最高幹部とされていましたが、広誠斎肥原源甫は、早くからその役職を歴任し、役頭として三世家元を後見していました。明治二一年(一八八八)、流内の信望が厚かった源甫が、空位のままであった家元に推されましたが、源甫はこれを固辞しましたので、源甫の高弟で大阪超泉寺住職の黒川義甫が、四世未生齋を継ぎました。
広誠斎肥原源甫は、未生流家元の衰微というよりも、華道界全体が衰退していた時期に、各地の同門の人たちの支えとなって働きました。このように困難な状況においても、『錦の幣』(一八六四)、『開華の錦』(一八六七)などのすぐれた花図書を発行しました。それらに収載された剛毅な作風に、その人柄がしのばれます。肥原源甫は明治二六年(一八九三)、八二歳で亡くなりましたが、そのときには、四世義甫も病気で家元を辞退していて、翌二七年に逝去しました。未生流にとって悲報が続きましたが、同年四月、全国の師範代が大阪に集まり、源甫に未生齋を追諡して五世家元とし、以後肥原家をもって家元世襲を定めました。これは源甫の業績に報いる意味と、家元という流儀の中心機関が安定してない混乱期の師範代には、そうせずにはいられぬものがあったからです。

五世 未生齋源甫 通称 肥原政右衛門 源三郎 大和郡山藩士 三世一甫の後見


六世 未生齋貴久甫 通称 肥原きく 五世源甫の後室 明治三五年(一九〇二年)歿

七世 未生齋勝甫 通称 肥原勝二 大正九年(一九二〇年)歿

六世家元を源甫の未亡人である貴久甫が務め、その逝去後、親族中山家から養子として肥原家に入っていた勝甫が、明治三五年(一九〇二」)に七世家元を継承しました。在世中『千種の錦』二巻、『千代の栄』三巻が出版され、大正五年(一九一六)には、現在の新花の母体である『飾花御代の花』を発行しています。大正九年(一九二〇)、勝甫は二六歳で亡くなりました。


八世 未生齋康甫 通称 肥原四郎 昭和五六年(一九八一年)歿

勝甫の死去を受け、その実弟で肥原家に入っていた康甫が十六歳で八世未生齋を継承しました。そのころ、未生流は関西を中心に、中国、四国、九州に多数の師範を擁して降盛期にありました。平穏な昭和初期初頭には、新花の形式の整備、普及に努め、また、格花の写真集『昭和選集』二巻も発行されましたが、第二次世界大戦による沈滞期に入ります。戦後、本拠地大阪の復興にともなって、流勢もしだいに回復し、昭和二八年(一九五三)には流祖の百三十年祭の記念大花展を開くに至りました。

八世康甫は、戦後の前衛いけばな志向の強かった時期にも、未生流の格花の伝統を保持し、新花においても、着実に教程の増補充実に努めてきました。『未生流のいけ花』、『未生流の格花』、『未生流の新花』などの教本を順次に出版し、新しい未生流会館の建築を構想、計画しましたが、昭和五六年(一九八一)六月、会館の完成を待たずに、七六歳で死去いたしました。

猫柳 水潜り「未生流の格花」所収


現 代 現代|九世 未生齋碩甫 通称 肥原良樹 家元職を慶甫に引き継ぎ「斎頭」を名乗る

同年昭和五六年、康甫の長男である碩甫が九世未生斎を継承しました。五年(二〇〇三)に流祖一八〇年祭記念花展、平成二〇年(二〇〇八)には創流二〇〇周年記念花展を開催、未生流の運営基盤を確立しました。公益財団法人日本いけばな芸術協会相談役、兵庫県いけばな協会相談役を務めています。


十世 未生齋慶甫 通称 肥原 慶現家元

平成二六年(二〇一四)四月に、碩甫の次男、肥原慶甫が十世未生斎を継承、家元に就任しました。端正で華麗な格花、ガラスやアクリル等を使用した華やぎの新花など平成の時代のいけばなを模索しつつ、未生流會館を本拠に流儀のさらなる発展に務められています。
現在、「未生」を名乗る流派は数多くありますが、未生流を初めて称えたのは当流流祖・未生斎一甫です。当流「未生流」は、江戸期に創流した未生流の流れを現在に正しく受け継ぎ、次世代に引き継いでいく使命を持っています。
現在、一般財団法人未生流會館代表理事、公益財団法人日本いけばな芸術協会常任理事を務めています。

未生流略譜 未生流略譜

一七六一 宝暦十一年 流祖未生斎一甫江戸に生まれる
一七九一 寛政 三年 流祖一甫、挿花の修行研究を尽くして、江戸より山陽、九州、山陰を遍歴。放浪生活のうちに華道理論を確立して、七軸の伝書にまとめる
一八〇七 文化 四年 このころ浪華斎藤町に居を構え、未生流家元の門標を掲げる
一八一二 文化 九年 未生流最初の花図書「挿花百瓶図」(流祖門入竹園斎九甫編)を版行する
一八一六 文化十三年 流祖口授「本朝挿花百練」(無角斎道甫筆記、探養斎一露校訂)を版行する
一八一八 文化十五年 不濁斎廣甫(のちに未生斎広甫)、四季祝い日の花図「四方の薫り」(のち「四季の詠」)を上梓する
一八二四 文政 七年 十月九日流祖大和に歿す
一八二九 文政十二年 二世広甫嵯峨御所に花務職として仕官し法眼の称号を許される
一八三六 天保 七年 二世廣甫伝書二巻を諸写本より木版本に改める。「華術三才之巻」跋文には次の和歌が添えられている。
「天地も神も仏も華なれば 人の心も花の世の中」
一八四四 天保十五年 二世が文化十五年に版行した「四方の薫り」が「伝書四方之薫」と改められて版行される
一八六四 元治 元年 伊勢における広誠斎門下の作品集「錦の幣」を広誠斎源甫編により版行。三世未生斎一甫の作品も載せられている
一八七七 明治 十年 三世未生斎一甫(上田越後)歿す
一八八八 明治二一年 黒川義甫、四世未生斎を継承する
一八九四 明治二七年 諸国の師範代が大阪天満に集い、広誠斎源甫に未生斎を追諡し、以後肥原家の家元世襲となる。肥原貴久甫、六世未生斎となる
一九〇二 明治三五年 肥原勝甫、七世未生斎を継承する
一九二〇 大正 九年 七世未生斎勝甫歿し、肥原康甫八世未生斎を継承する
一九二一 大正 十年 家元継承記念挿花大会が大阪中之島公会堂に於いて開催される
一九二三 大正十二年 流祖百回忌法要。流の機関誌「桐華」創刊される。
のち、昭和五年十一月号にて「未生」と改題、現在に至る
一九三〇 昭和 五年 新花を制定実施する
一九五三 昭和二八年 流祖百三十忌。家元主催の花展が大阪天王寺美術館で開催される
一九七三 昭和四八年 流祖百五十忌。未生流花展が阪神百貨店で開催され、作品集が版行される
一九七九 昭和五四年 「未生流家元三人展 いけばなその時…」を大阪・三越で開催する
一九八一 昭和五六年 八世未生斎康甫歿し、肥原碩甫九世未生斎を継承する
二〇〇三 平成十五年 流祖百八十回忌 未生流花展を阪神百貨店にて開催する
二〇〇八 平成二十年 創流二百周年記念未生流花展を阪神百貨店で開催する
二〇一四 平成二六年 九世未生斎碩甫から、肥原慶甫十世未生斎を継承する
九世家元碩甫宗匠、新たに斎頭を名乗られる

家元系譜 家元系譜

家元系譜

未生流の伝書 未生流の伝書

未生流の伝書は、流祖・未生斎一甫が自身のいけばな理論と哲学、その技法を著述したもので、未生流を学ぶ者だけに授与されるものです。江戸後期にまとめられたこれらの伝書は、現代に生きる私達にも深い感銘を与え、絶えざる追求の心を起こさせます。

伝書「三才之巻」

未生流の初伝々書です。序説、禁忌二十八条、花矩七十二条からなります。

伝書「體用相応之巻」

三才の花形から体用への展開を説かれています。また、様々な景色挿けの心得等があります。

伝書「原一旋轉之巻」

初代一甫宗匠が自ら未生流挿花の奥儀について述べたものです。
未生根源の姿に帰ろうとする境地を説いています。

伝書「草木養之巻」

流祖は、いたずらに草木の天寿を害すことを
嫌い、草木の生命を永くもたらしめるよう
各種薬法を考究しました。その名の通り、
草木を養う法が書かれています。

「妙空紫雲之巻」

華道を習得すると同時に心得なけれ
ばならない諸席の飾り付けについて
の書です。

「規矩之巻」

花器や花台の種類、寸法等について
書かれています。

ページの上部へ